二つの糸

「麻」

麻はアサ科アサ属の植物。現在は苧麻(ラミー)や亜麻(リネン)を含めた広義として麻と呼ばれるが、大嘗祭へ調進する「あらたえ」はそれらと異なる本来の大麻(ヘンプ)である。この麻は日本に古くからある植物で、衣類はもちろん。その繊維の強さから注連縄、釣り糸など様々な用途に利用された。使用する部分は茎から剥いだ皮のみであり、近年は麻の葉による薬物乱用が後を絶たないことから、新規就農が難しくなってしまった。

「絹」

絹はチョウ目カイコガ科の昆虫(蚕)から生成される動物繊維。いにしえの時代に大陸から伝来されたものであり、平安時代より大嘗祭へ奉る「にぎたえ」はこの絹から作られている。使用する部分は蚕が吐く繊維であり、それにより出来る繭(マユ)から糸を紡いでゆく。一時期は国の輸出量の8割を占めるほど全国的に蚕を飼う農家さんも多かったが、時代の変化により現在は皇居と僅かな農家さんでしか養蚕は行われず、流通する絹のほとんどは輸入に頼っている。

伝統の歴史と復活の立役者

     「あらたえ」                       三木宗治郎

            (1870−1937)

             阿波忌部氏直系​

             二十六代目 三木家当主

             御殿人(みあらかんど )

 

 

 

 

7世紀後半

阿波忌部氏より、大嘗祭へ「あらたえ」を調進(古語拾遺より)

建武5年(1338年)

光明天皇大嘗祭を最後に阿波忌部氏からの「あらたえ」調進が途絶える

​この間の「あらたえ」は『忌部所作代』として朝廷の役人が調進を代行

明治30年代

木屋平村の阿波忌部氏末裔の三木宗治郎が古文書「三木家由緒」を元に復活運動開始

大正4年(1915年)7月21日

徳島県知事より大嘗祭「あらたえ」調進の命令書

しかし、三木家では麻を育てる技術は失われており、調進する大正大嘗祭まで時間は残り僅かに迫る・・・

 

10月9日

山川町山瀬の山崎忌部神社に新築した織殿で織り始める

10月19日

宗治郎らが京都・大宮御所へ奉送(1338年光明天皇以来577年ぶり)

以来、御殿人である三木家と山崎忌部神社の氏子達が平成大嘗祭まで「あらたえ」の調進を務める。大麻に対する逆風から継続した麻の栽培は叶わないが、三木家当主はその伝統を人々へ伝え、氏子達も山崎忌部神社を守り続けている

​【三木家のエピソード】

まず、「あらたえ」は通常対外的には麁服と記されているが、正式には以下の通りだ。

麤服

阿波忌部氏そして三木家が御殿人として代々「あらたえ」を調進するのは官宣旨や太政官符といった古文書が遺されていたことはじめ、三木家由緒の存在、そして古語拾遺や延喜式に阿波忌部氏についての記述があることによる。朝廷では「あらたえ」を調進する阿波忌部氏が途絶えたと思い、しばらくは『あらたえ かっこ “忌部所作代”』として朝廷の役人が阿波忌部氏を代行して調進していた位、「あらたえ」は阿波忌部氏でなくてはならない特別なものだった。けれど、「あらたえ」については大嘗祭と同じく秘儀であり、私たちがそれ以上を知る術は存在しない。そのため、この鹿三つの字や、意味、そして由来などは一切分からないのである。そんな中、“途絶えた”とされていた阿波忌部氏の存在を蘇らせ、御殿人として調進を復活させた宗治郎の熱意は尋常ではなかったであろう。その宗治郎は22歳で木頭村役場の助役となり、後に村長へ。そして村長時代には山深かった木頭村から吉野川の町、穴吹の方へ道路を開通させるという大事業を行った。当初は地元の反対にもあったが、それは先見の明もあり、結果的には大正大嘗祭「あらたえ」調進用の紡糸を、その道に初めて入って来た県の自動車で運ぶこととなった。その後の宗治郎は郡会議員、川島町長を歴任し、地域発展のために汗を描き続けたのである。

「にぎたえ」

古橋源六郎

(1813−1892)

 六代目 古橋家当主

 古橋源六郎 暉皃(てるのり)

 

 

 

垂仁天皇25年(紀元4年頃)

三河国では桑が良く育ち、その桑で育つ蚕が作る繭からは赤引糸と呼ばれる最高品質の美しい糸が取れたため神御衣が織られてきた。ことに「にぎたえ」を調進(貞観儀式帖より)

正長元年(1428年)

後花園天皇大嘗祭を最後に三河国からの「にぎたえ」調進が途絶える

明治7年(1874年)

三河国名士の古橋源六郎(62歳)が平田門国学者の羽田野敬雄から「三河蚕糸考」より伊勢神宮献糸の復活をすすめられ、この地(稲武町/現・豊田市)が古くから養蚕において気候風土に適していたと知り献糸会運動開始

 

しかし、伊勢神宮献糸の請願が叶わず、さらに古橋源六郎は走り続ける。

 

明治13年(1880年)

古橋源六郎の働き掛けから愛知県指令により神宮司庁へ御衣献糸願を提出

明治15年2月(1882年)

神宮司庁より認可を得て絹の生糸を上納する

大正4年(1915年)7月21日

愛知県知事より大嘗祭「にぎたえ」調進の命令書

9月5日 

三龍社(愛知県岡崎市)の織殿へ奉納

10月11日 

京都御所の大礼使へ上納(1428年後花園天皇以来487年ぶり)

以来、古橋家と地元有志と役場が平成大嘗祭まで「にぎたえ」の調進を務め、現在までも途切れることなく伊勢神宮への献糸を行なっている。古橋源六郎は明治後期に没し「にぎたえ」復活を見ることはなかったが、伊勢神宮献糸の復活がなければそれも成さなかった

【古橋家のエピソード】

本編で紹介される源六郎暉皃の「天はなぜ・・」という言葉は、第187回国会での安倍総理大臣の所信表明演説の「地方創生」を訴える部分でも取り上げられる位、源六郎暉皃は地域発展のために汗をかいた人物であった。

古橋家は、中津川用水工事の棟梁を父(古橋源治郎義元)と共に務めた源治郎(後の初代の源六郎)が、60代の時に旅の途中で立ち寄った稲武町(当時・稲橋村)にて、経営が傾いていた酒屋を助けるために住み着いたことから始まっている。そして六代目の源六郎暉皃は天保の飢饉から村人の餓死を防ぎ、その後の七代目源六郎も持続可能な林業体系を整備するなど殖産興業に勤しみ地域を支える活動を続けた。戦後の古橋家は財団となり、山間部では珍しい総合病院を経営するなど古橋家マインドは引き継がれ今に至っている。なお、古橋家からは稲武町長の他に官僚を多く輩出し、九代目源六郎は総務事務次官を歴任するなど地域に限らず日本を支える存在となっている。

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